3回目の投稿となります。今回は日本のモノづくり、火縄銃と船について書いていこうと思う。自分の専門については、次回書こうと思っています。
さてモノづくりについては日本人は歴史的にいっても物凄い能力がある。また応用するという能力も凄い。ちょっと話が変わるが象が踏んでも壊れない筆箱が僕の小さいときに流行っていたが、その発想はその開発者がテレビを見ていて暴走族が信号を割ろうと石を投げていて何度あたっても割れないのを見たのがヒントになったという。というように信号機が筆箱に変身させてしまうような発想力が素晴らしい。
鉄砲は種子島からポルトガル人によって伝えられたが、それが滋賀県国友で一年で国産化され翌年には織田信長により量産されていたらしい。しかもポルトガルから入ってきた銃は2、3発程度で壊れてしまうものあったらしいが国産の物は何度打っても壊れることはなかったらしい。それにしても外国から入ってきた武器が一年で構造を理解し、それを軍用に量産したその速さと技術力が凄い。それを500丁も揃えて実践に運用した織田信長もただ物ではないが。。
しかもその火縄銃戦国時代末期では50万丁も保持していたみたいで世界最大の銃保有国だったようだ。この物の広がり方(レントゲン、CTなども世界一保有)も今の日本と変わらないのが面白い。
銃についてはこのぐらい。
次に黒船が入ってきて以来の日本の船について
黒船が入ってきて日本人が本気で恐怖し、色々な攘夷や開国等のいろいろな働きがった。そんな中大名な中に黒船がほしいと思い造ってしまった藩があった。
薩摩の島津家、佐賀藩鍋島家、宇和島藩伊達家でそれぞれ国産蒸気船を造ってしまった。
薩摩藩がすごいのは1853年に黒船が来航して、オランダの書物等を参考に1955年には雲行丸を試作してしまっている。(1851年に斉彬が蒸気機関の試作はしていたみたいだが)僅か2年で不完全ながらも国産って。。
その次に完成させたのは宇和島藩伊達宗城、黒船がほしいといってもこの藩は小さく、また誰も黒船を見たことがなく、図面もないというような状態だったが、大村益次郎(僕が明治維新で最も好きな人物)という医者でオランダ語が堪能な者と手先が器用な提灯職人の嘉蔵に任せた。オランダ人にタービンの図面を嘉蔵に見せると一日でタービンの模型を造ってしまった。これに喜んだ宗城は『よし黒船を造れ』といったらしい。2人は長崎で黒船を見たり、聞いたりして部品から全て国産の蒸気船を造ってしまった。失敗も多かったらしく特にタービンは鋳物で作っていたが爆発して失敗した。長崎に黒船が入ったときにタービン部分を叩いた際に構造が鋳型でなく鋼であることがわかり成功させた。叩いただけで構造が分かったって、、産業革命は何だったんでしょうね、、、。
佐賀鍋島藩では日本最初の実用運用蒸気船が造られた。その時中心的メンバーになったのが田中久重。からくり人形等を造ったりして東洋のエジソン、からくり儀右衛門などと言われていた。彼は現東芝、芝浦製作所の創始者である。
彼の名言があるので紹介『知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に成就があるのである。』東芝も失敗をバネにして頑張ってほしい。
コメント